ところざわ倶楽部          投稿作品       エッセイ&オピニオン


   
    
「戦中世代三先輩のアジアへの言葉   
                     
                      2021-10-1 記 栗田 博行(特別会員)
                                       

   

戦後最初の小学校1年生だったことから、自分を「戦後民主主義第一世代」と思ってきました。もう76年も戦後を生きたことになりますが、その割には、日本が戦争を仕掛けたアジア諸国の人々との交流体験を持っていません。しかし、放送関係の仕事で接した自分より先輩世代の人の口から出たアジアに関する言葉に、胸に残って離れない言葉が、いくつかあります。 


 Aさん…昭和ひとけた 学徒動員世代?

 「モウまぞうたろうが。済んどろが。いつまで言うんヤ」。定年退職後の第2次就職のライフステージで、イベント関係の仕事をしていた時、ある舞台裾で耳に入ってきた言葉です。「まぞう」とは「償う」の、「済んどろが」は、「終っているだろ」の意味の方言。私に投げつけるように言ったのでも、会場に向かって明言したわけでもありません。溜まっていたものが、思わず口をついたひとり言のようでした。イベントに協力してくれた土地の有力者で、私より一世代上の戦中世代…と言っても兵役や学徒出陣は経験してはいない…しかし戦時中の学校教育と学徒動員は受けて育った…そういう世代の人の印象でした。一部日本人の胸中に溜まっている、アジアへのナマの感情の一面に触れた気がしました。韓流ブームと対韓ヘイトスピーチが始まる少し前の頃の事でした。


 Bさん…大正後期生まれ? 兵役世代

 一方、さらに年上の戦中世代の先輩の、これとは真逆のアジア感覚の言葉も、私の脳裏から消えません。
 鉄砲提げて、よその土地に入って行ったら、もうそれだけで戦犯ヤ。それに気がつくのに私は10年かかった」。終戦間際の中国戦線で、陸軍将校として情報収集の任務に従事。ある時、ソンという赤軍発行の証明書を持った老人を捉え、情報を得ようとして鞭打ち、翌日「もう一仕事」と現場に臨んだところ、老人は死んでいたのでした。終戦の時捉えられ、その行為を戦犯として拘留されてのち、罪を認めて釈放され、昭和31年に帰還した人でした。情報収集将校として自分がとった行為が、戦犯に該当すると自ら認めるのに、牢の中10年の時間がかかったというのです。私のマイクに向けて、「それだけのことに気づくのに、それだけの時間がかかった…」と言って沈黙。「骨の髄まで日本兵になってしまっていた人間が、そう気づくのがどれほど難しいか…」と言い足して絶句。しばらくして、「ソン・テンポー、68歳。…私は、その人の歳を超えました」と言って、肩を震わせて慟哭されたのでした。日本人が、戦争中の自分の行為を歴史認識に昇華させることの、難しさと重さを知った取材体験となりました。


 Cさん=司馬遼太郎さん 学徒出陣世代 

 もうお一人は、司馬遼太郎さんです。学徒出陣で、満州で戦車兵となった司馬さんは、本土決戦に備えて早めに帰還し、凄惨な戦場体験は経験しないまま終戦を迎えました。しかし23歳で兵として迎えた815日以降、「なんとくだらない戦争をしてきたのか」という想いを、戦後を生きる思考の磁針の一つとされました。その総まとめのような語り下ろしを、教育テレビでしてもらったことがありました。(注)昭和の終わりの頃のことでした。
 「われわれはいまだに朝鮮半島の友人たちと話をしていて、常に引け目を感じます
ね。堂々たる数千年の文化
を待った、そして数千年も独立してきた国をですね、平然と併合してしまった。おそらく朝鮮半島のひとびとは、あと何千年続いてもこのことは忘れないでしょう。
 …帝国主義という言葉は上等過ぎですね。泥棒主義と言ってもいいのです。強欲な百姓が隣の畑を略奪するように、ただ朝鮮半島を取っただけでした。」
 
 キツイ言葉ですが、「なんとくだらない戦争をしてきたのか」と考え始めて、「そうではなかった日本」を発見し続けた愛国者だからこそ言い得た言葉だったと思っています。強く残って消えない言葉の一つです。



  (注)昭和61年5月21日 NHK教育TV
      司馬遼太郎 雑談『昭和への道』第3回「帝国主義とそろばん勘定」より
           (NHKブックス「昭和」という国家)