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ミニヤコンカ展望記

                        2019-1-18  記 渡邉 晴雄

                        (19期修了、21期企画委員長)  


                    

登山困難な山のトップ3は、エベレスト、K2、ミニヤコンカと言われている。

10年前、観光施設(観光道路とリフト)の完工に先立ち、幸運にもミニヤコンカを間近かに見る事が出来た。

ミ二ヤコンカは四川省大雪山脈の最高峰で標高は7,556m、チベット語で白氷雪という意味である。急峻で天候が急激に変化するため、登頂成功者は20名にも満たない魔の山である。

1932年、アメリカ登山隊が初登頂に成功した。日本では1997年にコンカ山登山隊が初めて成功したが、それまでに1981年の北海道山岳連盟登山隊(8名滑落死)、1982年の市川山岳会登山隊(2名遭難―1名は19日後、奇跡的にイ族により救助された)、1994年日本ヒマラヤ協会隊(4名行方不明)という惨憺たる状況だった

私は以前、日中青年研修協会の理事として中国での植林事業に関係していた。

小渕首相の時代に、中国での治水、日本での黄砂飛来防止には、植林が必要であるという事が両国で認識されて、日中共同で中国での植林事業を進める事になった。

日本側は、10年間で100憶円を負担する規模(中国もほぼ同額)で、活動がスタートした。2000年から我々の協会は、中華全国青年連合会と協力して、宜賓(四川省)、雅安(四川省)、岳陽(湖南省)、共青城(江西省)、阜新(遼寧省)等での植林を実施した。

ミニヤコンカを見る機会が得られたのは20075月、四川省甘牧州濾定県で植林を行った時の事である。 濾定県は標高2000mで70%がチベット族。紅軍が長征をスタートさせた所で国民軍との激しい戦闘があった濾定橋は、植樹祭を行った広場の傍にあった。

 植樹祭には日本から我々2名、全青連から3名、甘牧州から数名が役員として参加。一般参加は地元の農民、役人、軍人、学生、等。2000名に対してのスピーチでは、流石緊張した。 


    

植樹祭が終わり、ホテル康定情歌賓館で宴会が開かれた。チベット族は、“話始めた時に歌を習い、歩き始めた時にダンスを習い、水を飲み始めた時に酒を習う“ そうである。その事は宴会の席で間違いなく実証された。
 康定情歌等を合唱してくれた3人の女性歌手は、とても美しい透明な声を披露してくれた。
宴たけなわとなった時、甘牧州のイシワダ主席が笑顔で話しかけて来た。

“観光施設(道路とリフト)は今未公開だが、ミニヤコンカの展望台と海螺溝氷河へ案内したい”という全く望外のプレゼントだった。

翌日は快晴。アジアで最長スパンを誇るというリフトは、幅1000mの海螺溝氷河を横切り、氷河展望台(標高3400m)へ我々を運んだ。ミニヤコンカは悠然と我々を待ち受けていた。空は青いが風が強く雲が常に飛游しており、落ち着いた姿のミニヤコンカを中々見られない。大雪山脈の山々が重なっており、実に雄大な山容だ。展望台の傍の海螺溝氷河は、ゆっくりと、動いているのだが、大雪山脈を背景とした眺望は素晴らしかった。カナデアン・ロッキーのコロンビア氷原より、スケールは大きく感じた。展望台の近くに、遭難した市川山岳会松田宏也が19日後、イ族に救助された記念碑があった。




    


 濾定県での行事が全て終わり、帰途に就いた。
 お土産に乾燥マツタケと固形蜂蜜を買った。

 成都までは約400km。途中雅安市で一休みし、実りの多かった旅は終わった。

      2019,1,15 渡邉 晴雄