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ベトナムの娘と孫(上)
                                                      
                                                   

                              2018-10-18 
 記 アジア研究会 当麻 実

 

 「お父さん、お元気ですか。私の住むソンタイはハノイ市内から約40km北にあります。10月にお父さんがベトナムを訪問すると聞いてとても興奮しています。おひとりですか。ソンタイのホテルを予約しておきます。ソンタイは夫の故郷です。ソンタイは小さな町ですが、とても美しく、また平和な町です。お会いできるのを楽しみにしています」

 これは娘・ヒュエンからのメールだ。ヒュエンの高校卒業式に出席してから早や10年の歳月がすぎた。結婚して三歳の女の子がいる。元気なうちに「ベトナムの娘と孫」に会いに行くことにした。「ベトナムにお孫さんがいるんですか」と聞かれる。ヒュエンからずいぶん前に「(日本の)お父さん、お母さん」と呼んでいいですか? というメールが届いた。ヒュエンは実の子ではないが、即座にOKした。

 ヒュエンは少数民族出身(ムオン族)だ。南北に長いベトナムには54の民族がいる。現在は合併でハノイ市に編入されたが、旧ハタイ省のバービー地区に住む農民の子どもだ。ヒュエンには妹と弟がいる。中学校から高校に進学を希望したが、家は貧しく、高校進学の学費がだせない。私が所属していた「日本ベトナム平和友好連絡会議」(JVPF)からの呼びかけで、3年間、毎月約10ドルの学費を援助した。

 旧ハタイ省にあるハタイ少数民族高校の卒業式は、日本とはおもむきが違う。校長先生は長々と祝辞をしていたが、卒業証書授与はない。式典が終わると民族舞踊があった。ちょっと変わった卒業式だと思ったが、このあとベトナム全土の全国統一テストで合格して、初めて高校の修了になるという。今回、バービー地区に行く途中、このなつかしい少数民族高校を車から眺めた。

 私が初めてベトナムを訪ねたのは19971月であった。当時、所沢はダイオキシン問題で大きく揺れていた。高濃度のダイオキシン汚染で市民の不安は増大していた。ピコグラム、ナノグラムなどの言葉は理解できるが、それは人体や自然に具体的にどのような影響を与えるのか。その実例がベトナム戦争での米軍による「枯葉剤」散布であった。所沢市議会議員だった私は、ベトナムに飛び、農村地域を訪ね、被害者の実態、家族の生活などを視察して、頭ではなく、肌でダイオキシンの恐ろしさを実感した。

その後、何回かベトナムを訪ねた。今回の旅は5日間だ。旅の最初は、ハノイから南へ120km離れた世界遺産の「古都ホアルーとチャンアン」を訪ねた。とくにチャンアンは石灰岩からなる奇形の地で、鍾乳洞や洞窟がある。小舟に乗ってのんびり2時間を過ごした。4人乗りの小舟には2人のスコットランド人の男女が窮屈そうに乗っていた。



石灰岩の奇岩がつらなるチャンアン



    
1時間以上乗っても安い路線バス       ハノイの朝。けたたましいバイクと車


 翌日、ハノイのコーザイバス停(20B)からソンタイ行きの路線バスに乗った。車内では男性車掌が切符を売っていた。9,000ドン(45)の運賃だ。ベトナムのお金は2,000ドン、50,000ドン、100,000ドン、200,000ドン、500,000ドン等、通貨の単位が大きい。バス代の運賃は1万ドンをだして1,000ドンのお釣りがくる。日本円に換算するには、下2桁をとり÷2だとわかりやすい。 

ハノイの街は信号と歩道が少ない。車とバイクがひっきりなしに走ってくる。どうやって道を渡るか、とても危険を感じる。向こう側に渡るコツがつかめない。近くのベトナム人が道路横断を誘導してくれた。バイクのライダーは色とりどりのマスクをしている。バス内でもマスクをしている人は多い。空気が悪いからだろうか。(つづく)