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           天津からの引揚げの話(第1章)
                                                      
                                
 2017年11月22日  記 松本紀彦  


 私達70代の世代は大なり小なり、戦中・戦後の悲惨で辛い体験を持っています。

68年前の昔、敗戦直後に幼少期だった私は、当時の居住地だった中国から日本に引き揚げて来ました。その時の

辛く厳しい思い出話を致します。


 私は父の仕事の関係で、中国の天津市で生まれ育ち、敗戦時には5歳でした。当時住んでいた家の裏側には学校

が有り、広いグランドに接していました。


 昭和208月敗戦になると、そのグランドに中国の奥地に進軍していた陸軍の各連隊や戦車隊が武装解除のた

め続々と集結して来ました。日本に引き上げて来るまでの約半年間、私にとってはそのグランドが楽しい絶好な遊

び場に成りました。



 武装解除した暇な兵士達は、久しぶりに見るあどけない日本の子供に、親近感を持って接して呉れて、遊びに行

くと色々な方法で優しく遊んでくれました。

 私は毎日のように遊びに行き、戦車隊の兵隊さん達は操縦席に載せてグランドを1周してくれます。騎馬隊の兵

士は軍馬の鞍に乗せて、これまたグランドを回って楽しまして呉れました。帰還の最後の頃に「坊やにこの馬をあ

げる」と云われ、鞍まで貰いました。

 母の話では、私は家の何処に馬を置くかと、本気で場所を探し回っていたそうです。


 引き上げるまでには周囲で様々な事が有りました。私と同じ年齢の知り合いの女の子が、望まれて中国人に貰わ

れる事になりました。母は、日本人であることを忘れないようにと、不要になった姉の雛人形を差し上げたそうで

す。経緯は良く判りませんが、何んとも悲しく辛い出来ごとでした。


 引き上げる直前には、何故か米軍の将校数人が家に来て主なる家財道具を引き取る折衝をしていました。父の話

では、終戦後天津に米軍が進駐して来て、空いた日本人住宅を引き受ける状況になったようです。父は殆どの財産

を没収されて非常に困っていましたが、米軍のお陰で貴重なドル貨幣を入手しました。このドルで天津市に在る欧

州各国の租界地(イギリス租界やドイツ租界)に行き、家族全員に新品の衣類を購入して帰国に備えました。屈辱

的で惨めな敗戦の直後でしたが、私は頭の先から足の先までイギリス製の立派な衣類を身に着けて、場違いな坊ち

ゃんスタイルで引き上げて来ました。天津市は港町で、引き揚げ集結所に近い立地条件で在ったのが、私達の一家

に非常に幸いとなりました。



 愈々引き揚げの当日は、夜中に日本の陸軍から配車されたトラックが来て、一家が乗り込みました。日中ですと

中国の警察に止められ、僅かな荷物を没収されるとの情報が有り深夜に決行となりました。


 しかし、トラックのエンジン音で警官に気付かれ、飛び出して来た警官に急停止の命令をされました。ここで止

まると何をされるか判らないので、そのままノン・ストップで逃げ切りました。父の話では、ピストルで後方から

数発撃たれたとの事です。



 敗戦後の昭和212月に天津市の塘沽港から長崎県の佐世保市に引き上げてきました。引き揚げ船は米軍払い

下げの3500トン位の「LST上陸用舟艇」でした。

 運搬船なので乗り心地が悪く酷い揺れで3日間ひたすら耐えて、東支那海を渡って来ました。 船の中での昼食

はカンパン一袋が配給になりました。 ガーゼの布で出来たカンパンの袋の中にはコンペイトウが34個ほど入

っていました。甘い物が無い船の中で、私にとってそのコンペイトウが、とても嬉しい宝物でした。今でもコンペ

イトウを見るとあの時の心情が甦ります。



 日本に着いたぞ~の声が船内に響き、乗船していた引き揚げ者は皆甲板に駆け上がり無事日本に帰り着いた感動

でジッと佐世保港を見ていました。 幼い私には初めて見る日本の佐世保港の青い山々が、今も強く目の奥に残っ

ております。


 港内には空襲の爆撃で、船体が傾いた航空母艦や、舳先が海上に着き出し後部は海中に沈んだ潜水艦が敗戦の残

骸として残っていました。


                                           以上


 以上は、終戦直後に幼い私が体験した身の周りの大変遷で、忘れ得ぬ辛い引き揚げの状況でした。

 ※この続きは、第2章で続編を作成しようと考えております。




 《HP管理人からのひと言》
  私は、松本氏から話を伺い、原稿を見せていただきまして、是非HPに掲載させていただきたいとお願い
  したものです。私は、2003年~2007年末まで天津に駐在していましたので、松本さんのお話や文章を
  見せていただき、非常に身近なご縁を感じた次第です。      玉上佳彦

  以下の写真は、私(玉上)が撮影した「めまぐるしい勢いで発展」している最近(2016年、2017年)の
  天津市内の写真です。