民話の会 民話紹介コーナー
           
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5.塚ノ越地蔵

        
  むかし

秋も深まったある日のこと、旅に疲れた尼僧が坂の下にやって来ました。
野良仕事をしているお百姓に尋ねました。

 

       
  2  尼僧:この辺りに、休めるようなところはありませんか

   お百姓は、やつれた尼僧の姿に驚いた様子で、鍬を置きながら腰を上げました。 

百姓:そういえば、少し遠いがのう、坂を登ったところにお堂がある・・・
    今はだぁれも住んでいねぇだ。行ってみたらよかんべぇ

尼僧:お~ぉ、それはよかった、よかった。お礼を申しますと、
   手を合わせ、何度も振り返っては頭を下げ、お百姓の言うお堂へ向かいました。

       
  3  秋の夕暮れ時、さわさわと風が吹き辺りはススキの野原が続いて、
遠くに「滝の城址」が 見えました。

その尼僧がどうして坂の下に来たのか、その訳を知る人はいません。
仏門に身を捧げ、諸国を旅するうちにこの地にたどり着いたのかもしれません。
誰を頼るわけでもなく、托鉢(たくはつ)をしながらこの地で暮らし一生を終えたそうです。

(これからお話しする「塚ノ越地蔵」は、その尼僧が江戸時代の中頃の
 享保十八年(1734年)に建てたものだと言われています)

 

       
  4  昔、川越道を馬に乗っていくと、よく侍に出っくわした。
そんな時、農民たちはわざわざ馬や荷車から降りて通らなければならなかったのです。

百姓:今日も侍が向こうからやってくる! 偉そうに馬に乗っているとにらまれる。

    早いとこ馬から降りにゃならん くわばらくわばら

 

       
  そんな具合で、お百姓たちは川越道を通らずに裏道をよく通ったものでした。
ところが、坂の下のあるところで、この裏道が三本道に分かれている。
どっちへ行ったらいいのか迷う旅人が多かった。

旅人:やれやれ、ここまで歩いてきたのにどうもこっちの道じゃぁなかったわい。
   大分、無駄をしてしまったのぅ。あの分かれ道に戻るしかあんめぇなぁ

    と、うろうろ迷っていると、
旅人:やぁ、旅の人、お前さんも間違えたのかい? わしも竹間沢(ちくまざわ)
   行きてぇのにどうも一本、道を間違えてしまったようだぁ~

そんな様子をいつも目にしていた尼僧は、お世話になっている村の人たちや旅人に、
何か恩返しできることはないか、と考えるようになったらしい。
       
  6  道に迷い、難儀している旅人にも喜んでもらいたいと、だれに相談することもなく、
道しるべの代わりに 道の分かれているところに「お地蔵さま」を建てて、その台座に
「右、かめやつ(亀谷)みち」、「中、とめ()みち」、
「左、ちくまざわ(竹間沢)みち」と方角を刻んだ。

お地蔵さまを建てるお金はどうしたのかって? それはわからない。尼僧が自ら持って
いたお金を使ったのか、托鉢で貯めたんだか、この辺りの者に寄付を募ったんだか、
何も記録が残っていない。ただ、誰が頼んだわけでもなく、尼僧が一人で建てたことは
確かなようで、このお地蔵さまには今でも講社(お経を唱える会)や
世話人(寺の維持管理を手伝う人)もいないのです。
尼僧は毎日、お地蔵さまに野の花を供え、旅人の無事を願っていました。

旅人もみな、道案内しているお地蔵さまの前で手を合わせ、道を確かめて通っていきました。村人や子ども達も、いつしか尼僧を見かけると、「尼僧さま~」「尼僧さま~」と親しげに声をかけるようになっていました。
       
  それから長いこと、時が経って、一つ困ったことが起きました。

この「お地蔵さま」は狭い三本道の道分けに立っていました。
それで、明治三十年ころになると、車がえらく通るようになりました。
車といっても人力車や大八車です。

それで、お地蔵さまが邪魔になり、近くのお寺(東光寺)へ移してしまったのです。

       
  8  そうしたら、お地蔵さまがたっていたところの地主がどういう訳か歩けなくなって
しまったということです。

ずっ~と十年もの間、歩けないままでした。

家族:どうしたんだんべかぁ~ わけがわからんのぅ
 でえてぇ、こんなに長ぇこと歩けねぇなんてこたぁ、なかんべぇ~
 何かのたたりじゃあんめいか?

と、いうことになって、家の者は占い婆さんに観てもらうことにしました。

       
  占い師:む~にゃ、むにゃ、むにゃ。 む~にゃ、むにゃ、むにゃ。
    ええ~い… こぉら、お地蔵さまをどっか、別のところにもっていったんべぇ

家族: このごろは、道を通るのにお地蔵さまが邪魔になってなぁ、そんでもって、
    お地蔵さまを東光寺の墓地の入り口にもってった

占い師:そのお地蔵さま、元いたところへ「帰りてぇ、帰りてぇ」と、言ってるだぁ

 

       
  10  そこで、お地蔵さまを元あったところの、歩けなくなった人の地所へ移しました。
そうしたら、歩けなかった足が、日を追うごとに良くなって、
歩けるようになったのです。

家族:やっぱり、お地蔵さまは元いたところに、いたかったんだべぇ
    だいいち、別のところにいたんじゃぁ、道案内も出来ねぇべぇ~
    勝手なことして、悪ぃことをしたなぁ
家の者や村の人たちは、戻ったお地蔵さまに手を合わせながら
「お地蔵さまも、さぞ喜んでいるべなぁ」と、言葉を交わしました。

 

 

       
  11  お寺や墓地にあるお地蔵さまは、たいてい「あの世」の案内をするのだけれど、
このお地蔵さまは「生きている人」の道案内をしているのです。

今でも、四日と十四日、二十四日には必ずお参りする人がいるし、毎日お参りに
来る人もいる。遠くからくる人が拝んでいることもある。

特に、何かご利益があるという訳でもないし、お地蔵さまにまつわるお祭りも
ないのです。
今から二百八十年余り前に、このお地蔵さまは坂の下にやってきた尼僧によって
建てられました。
それから時代が過ぎて、昭和三十二年に、坂の下の人たちは力を合わせて寄付を集め、
かねてから念願のお地蔵さまの「お堂」の改築をしました。
お地蔵さまは、今、新しい立派な「お堂」に大切に祀られています。

坂の下でこの「塚ノ越地蔵」を見かけたら台座に刻まれた「右 かめやつみち、
中 とめみち、左 ちくまざわみち」の三つの方角を確かめてください。今でも、分かれ道に立って、人々の道案内をしているのです。
       
     12 ところで、むかし尼僧が住んでいたお堂は、どうなったかって?
明治になってから、一人の侍が職を失い食うに困ってそのお堂に住みついたそうです。
ところが、その侍は野良仕事も出来ないし、村の人を困らせることばかりするのです。

村の人は、誰一人相手にしなくなりました。そうしたら、いつともなくいなく
なってしまいました。
村の人たちは、二度とそんな人が住みついては困るということになって、
お堂を取り壊してしまいました。    
今では、どこが「堂屋敷」なのかわかる人もいないし、昔の地図にも
書かれていません。
       
     13 秋深まる、ある朝早くに、ふと、振り返ってみると、
お地蔵さまの前で、静かに手を合わせる尼僧の姿が、

朝日に照らされて、眩しく映し出されたように見えるのでした。