連載 「昔を思う」 

名  前 更  新  日 備  考
お袋 17.12.23〜18.4.6
親父 18.4.13〜 18.8.30 記入

「昔を思う」

bQ 親父
記 載 日 内          容 備 考
18.8.30
小学生の頃、ハーモニカを習って上手く吹けないで・・・ 口笛は自分なりに得意な積もりでいた

どうなって親父がここで出てくるか分からないが、親父が「知ってる曲は何でもハーモニカで吹ける、楽譜も見ないで・・・」
びっくり、自分は結局ハーモニカが吹けず仕舞い・・・
親父がハーモニカを吹いているのを聞いた記憶は無い!?
しかし、本物らしいのは「小学校の頃、学校が終わった後一人学校に残って、講堂に有るピアノをこそっと弾いていた!」こんな言葉を聴いたことも!
私とは全く別人・・・ 羨ましかった
何故か、今、自分が、「オカリナに夢中になり、オカリナを作り、吹き方を教え、みんなと慰問演奏をやってる」 これは親父の血が少しは有るか? コンプレックスから来る頑張りか?・・・

ハーモニカ

オカリナ
18.7.14
学校に在学中、大分から関東に親父が出て来た時のこと

「一番易い宿を探せ、1週間ぐらい居るから!」 2箇所ぐらい探して問いあわせたら、高すぎる!・・・結局1泊千円ぐらいな共済の一番易いとこに落ち着いた
人に親が来てるようだがどこに止まってるの!と聞かれても恥ずかしくて、お茶を濁して・・・ 
しかし、親父は大満足で毎日東京に一人で出かけていた

外食もほとんどしたことが無く、一度80歳ぐらいになった頃、「食べたい店があるから連れて行ってくれ」と家の近くのレストランに行ったことがある
外食はその時ぐらい・・・ しかし、人に金を無心されると・・・
  貧乏性&情に脆い
18.5.30
我が家から駅館川(やっかんがわ)まで300メートルぐらいかな! 牛を飼っていたので、川原に牛を連れて行って草を食べさせたり、遊ばせていた

子牛が生まれると子牛も一緒に! しかし、繋いでないので親牛の周りを飛び跳ねながら付いて行く。 道路脇の人家の庭にも飛び込んで歌壇を蹴散らかしたりして喜んでいた。 しかし、近所から苦情は無かったようだ! 
お互い様か、当時は大らかだった・・・

子牛
18.5.2
裏の駅館川でよく親父連れられて川魚を獲りに行ったものである

 母親の話では、私が生まれた日も川全体に張る網で魚を獲りに行ってたそうである。 張ったまま上げに行かれなかったため、網がめちゃくちゃになったとのこと。
 ビン、手簿、投網等で鮎、ハヤ、鰻、川蟹等を獲った記憶がある。 ビンを浸けるときは川にフルチンで入るので恥ずかしくて嫌だった。
しかし、良く獲れた。 一杯魚が入っている時はビンの中が白く濁ってビンの場所が良く分かった。 ビンを浸けている有りかを自分たちだけが分かるように、石を積んで目印に!
 乾燥させて、一年中食べられるように・・・ 
楽しい思い出である。
自分の子供とは・・・

川魚獲り
18.4.20
何故か、親父からは怒られたことが無かった。
今思い出そうとするが、ある一件を除いて思い出せない。
良い子ぶっていたのかも! 言い付けは良く聞いていたような気がするので、怒ることも無かったのかも! 勉強のことも一切何も!
しかし、一件だけは! 自分でも吃驚。
お客さんが来ていて、親父とその人が火鉢を挟んで話をしているとこに、割り込んで火を弄っていたら、いきなり火箸で頭を叩かれた
今でも、鮮明に覚えている

一度だけ
怒られたことが!
18.4.13
親父は何かこと有るごとに、「光春は賢かった!小さいのに色んな用事が良く出来ていた。 あいつが生きていたら、きっと立派に成ってるがな〜」と口癖のように言っていた。 自分としては自分の居る前で余り言わない方が良いのにな〜と。 しかし、小学校に入学する前に病気で長男を亡くした時は相当がっかりしたことだろうと思う。

一枚だけ、ヨチヨチ歩いている写真が残ってるだけで、私より10歳ほど上だった。 私は実質的には長男として育てられたが何時も無くなった兄さんのことが気になっていた。 生きていたら・・・
                      (明日は母の法事で大分に帰省)

光春は賢かった

5才で亡くなった長男
bP お袋
記 載 日 内            容 備  考
18.4.6 お袋と父は7つ違いだった。 その父がお袋のを最後まで面倒を見た。 お袋は余り愚痴も言わずに良く親父の言うことを聞いて、農作業をしていた様に思う。 要はこき使っていた感じがする、そんなこともあってか、お袋がやや軽度の認知症になってからも良く面倒を見ていた。 自分は一緒に生活していなかったので帰った時にしか分からないが! 実際は弟の嫁さんや近所に住んでいた姉二人が面倒を見て呉れていたことと思う。 親父は「俺が面倒を見るから病院には入れない。」と亡くなる一週間前前まで頑張っていた。
お袋との最後の会話は、みんなでお膳に直っていた時のこと突然「全部(みんな)分かってるんだから!」と真顔で言った言葉だった。
お袋も親父に面倒を見てもらって幸せだったと思う。
お袋の看病父が!
18.2.12 私は自分の名前に今ほど感謝してることは無い。 インターネットで自分の名前「岡本詔一郎」で検索すると同姓同名がいないので、自分のことだけ! 姉の名前で検索すると違う人が一杯、見る気もしないほど。
母は当時としては珍しく子が付いてなくて、男の名前でもある君枝、余り気に入っていないようであった。 今は女の子は子を付ける人は居らず色んな凝った名前が多い。
自分の名前はひらがなで書くと11字大変だった。習字の時には特に! パソコン時代になって、今は感謝!
名前 君枝
18.1.30 堀江モン逮捕で昔を思い出した。 お袋は親父よりも金銭的に敏感なとこがあり、親父に「今度新しく出来る道路の近くに宅地になる土地が有るから買ったら・・・」と言ってた・・・ 
どうもお袋は親父に内緒で親父の退職金で株を買ってしまい、大損をしてたらしい! お袋にはそんな一面も有った。
株の話
18.1.14 髪が真っ白で、友ちゃんから「染めたら!」と以前言われたことがあるが、「自然が好きだから、あるがままで良い」と言って染めないで来ている。 しかし、現役のころは染めていたこともある。
思えば、お袋が髪を染め無いで椿油を自分で作って付けていたのを思い出す。 「これで十分!」と言ってたような気もする。
偶然だが、自分も今椿油は付けている。 染めているわけでは無いのに、少し黒くなるから不思議!
髪の素
 18.1.9 お袋は親父よりも政治に関心が強かったような気がする。 子供の頃、姉から聞かされた話で、姉はお袋から聞いたのだと思うが! お袋が女学校時代に臼杵に住んでいたおり、凄い町長選挙があり、二つに分かれて泥仕合になり、お袋の父は警察署の署長をやっていたことも有り、署長官邸にデモが押しかけ、身の潔白を証明するために裸で玄関に出て、父は一席ぶった! 「お袋は恐ろしかった!」と姉に漏らしていたようだ。  選挙の話
17.12.30  自分は、お袋が親父に何時も作業の指示をされて農作業をしている姿を見て育った。
 上手に農業をやるので、子供の頃からやってるものと思っていたら、警察官の娘だったらしくて、全く土など弄ったことは無かったことが大きくなってから分かった。
 当時の女の方はみんなお嫁に行った先が農業をやっていれば当然・・・
しかし、頑張ってたな〜 毎日毎日、明けても暮れても! 文句も言わずに、言われるままに農業を!・・・
農業は始めて
17.12.27  自分は酒が飲めずに残念で仕方が無い。 しかし、少しもむのは好きで毎日缶ビールを飲んでいる。 酒はほとんど飲まない、前の年の正月の酒が残っていることもしばしば!
 親父の血を引いてどうも飲めないらしい。 親父は少し飲むと真っ赤になってほとんど飲んでなかった。 
 お袋のお父さんは警察署の所長を日田でやってたらしいが、酒が好きで、ご飯はほとんど食べずに、お酒だけだったらしい。 その代わりタバコは全く呑めずに、ニコチンが行ってないタバコをふかしていた様だ!
 お袋はお屠蘇ぐらいしか飲んでいるのを見てないが、ある晩、こそっと酒を飲んでいるのを目にしたことが! 好きだったのかもしれない。
 今考えると、好きなら呑めば良かったのに!と思う。
そんなわけで、自分はタバコは吸えず、酒も飲めない
良かったのか、悪かったのか!?
 
自分は
酒もタバコもだめ!
17.12.25  手作りの学生帽を、お袋がビロードで作ってくれ、小学校6年間被り続けた。 友達のは買った素晴らしいものなのに、私は一人変な形の帽子! 嫌だったが何故か何も言わずに・・・
 お袋は器用で、色んなものに挑戦し、純毛のセーターまで!
並ではなくて、羊を飼い、羊の毛を大きな鋏で刈り、その毛を大きな釜で煮て、今度は干して乾燥させ、次は特殊な紡ぎ器で紡ぎ、その紡いだものを一箇所摘んで回転させながら糸を作って・・・
更に、それを染め、セーターに!
 気が遠くなるようなことをして、私に純毛のセーターを編んでくれた記憶がある、色は確か緑色だったと思う
思い出せば、色んなものを作ってた。 豆腐や油揚げも!
 自分が今陶芸を趣味として楽しんでおられるのも、お袋の血を引いているからかも知れない。 感謝!
何でも作ってくれた
17.12.23  お袋とは何時も一緒だった様な気がする。
親父は勤め、姉や弟は学校。
 
農作業を二人で何時もやってたような記憶が強い。
お袋は私に働かせるために、草むしりの時に一畝(うね)むしると10円(はっきりは覚えてない)とか呉れるシステムを作っていた。
私は毎月もらえるお金が楽しみで頑張ってたと思う。
 今考えると働いても働かなくても小遣いは貰えただろうに!
しかし、こんなにして鍛えられたためか、労働をすることが全く苦にならない。 どこまで、お袋が考えていたかは定かでないが感謝に絶えない。

何時も一緒!